8/3(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には
草津宿街道交流館と草津宿本陣の八杉淳さんにお話をおうかがいしています。
今回は草津市の花あおばなから作られた草津の特産品 青花紙の流通についてお話いただきました。
夏の暑い盛りに花を咲かせるあおばなの花びらを摘み取り、絞った汁をハケで何度も和紙に染みこませ乾燥させたものが青花紙です。
江戸時代初期に書かれた毛吹草(けふきぐさ)という俳句の書物に近江国の青花紙が初めて登場します。
その後本草学(ほんぞうがく)の書物にも青花紙の作り方やどのように用いられたかが書かれています。
あおばなは今は生産農家がほとんどありませんが、江戸時代には草津周辺の栗太郡地域で広く栽培されていました。
あおばなが地獄花と呼ばれるほど青花紙作りは厳しい暑さの中での重労働でしたが、現金収入になるので相当数の農家が副業としていました。
膳所藩の資料によると青花紙の収入から税金(青花運上)を取り立てるため、膳所藩は青花紙の流通を一手に差配する青花会所を設立します。
しかし栗太郡一帯すべてが膳所藩の領地ではないため、他の藩の領地で作られた青花紙は青花運上を支払わない…などの問題も出てやがて会所は立ち消えになりました。
また山田や下笠など青花紙の中心となった村から栗太郡一帯の流通を管理しようと青花紙の売り会所作りを願い出たのですが、それも現実的にはうまくいかなかったようで、江戸時代の青花紙の流通に関してはまだよくわかっていないところもあります。
青花紙は京、大阪の染料屋へ売られて友禅染や絞り染めの下絵書きとして使われたのですが、江戸では浮世絵の青色にも用いられたと最近わかってきました。
仲買をしていた上笠村の庄屋に残る資料では友禅染で使う京よりも大阪の方が青花紙の流通量が多いという記録があり、大阪から江戸に出荷されたのではないか?浮世絵の青色のほかにも需要があったのではないか?と考えられています。
時代が下ってこんぺい糖などお菓子の色づけに使われたことも最近わかり、青花紙は染色関係だけでなくもっと幅広い用途があったのでは…と今後調べていく必要があります。
あおばなの絞り汁を容器に入れるのではなく和紙に染みこませ、腐らず軽くて運びやすい形にしたというのは他にはない特殊な流通の仕方です。
使う時はその紙を水につけて染料に戻すのですが、江戸時代の人々の工夫から生まれた合理的な方法には感心します。
「くさつ歴史こぼれ話」次回は9/7(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…