10/29(木)モニロケ785は高橋さゆりとカノチヒロがお送りしました。
第5木曜日10時台は「歴史のなぞ」
栗東市小槻大社宮司で京都市歴史資料館主任研究員の宇野日出生さんにお越しいただきました。
今回は近江の祭その3として「神道と神道文化」についてお話いただきました。
江戸時代までは神道と仏教、神と仏は一体となって信仰されてました。
明治以降分離されたのですが、それでも一体となって信仰されているところは結構残っています。神道と仏教は日本人の最も重要な信仰の核であり、これなくしては人々の生活は成り立たなかったくらい大きなものです。
神道文化の具体的な事例を滋賀県の3つの神社から紹介すると…
1.日吉大社
明治以降比叡山延暦寺から分離した神社ですが、春の「山王祭」は神仏習合の形がそのまま残っており神社の本殿で延暦寺の住職がお経を唱え日吉大社の宮司と並んで両者がお祭りをします。山王祭のほかに中世には「小五月会(こさつきえ)」という大きなお祭りがあったそうです。お祭りを支えていたのは京や近江の酒屋・土倉(高利貸し)で祇園祭と同じくらいかそれ以上にお金がかかったので戦国時代には消滅していまいました。大きなお祭りはお金がないとできないところに文化の伝承の難しさがあり、神道文化には経済的なものが必要でもあります。
2.太郎坊宮(阿賀神社)
修験者が山の岩場で修行する場だったお寺の太郎坊宮が明治以降阿賀神社となりましたが、通称として太郎坊さんと呼ばれています。修験者が吹くほら貝の音を口真似したデロレンという唱えが江州音頭の歌詞と歌詞の間に入っていることから、太郎坊のある八日市は江州音頭発祥の地と言われています。修験者が行っていた名ごりが江州音頭に残されているのも興味深い神道文化といえます。
3.若宮神社(甲賀市土山)
地元の農家の人が数年をかけて神社で厳しい修業を重ね、最後の1年は宮守(神主)として神がかりのような人になるという文化が残されています。宮守になるとお告げができるようになり、そのお告げを聞きに日本全国から若宮神社へ来られます。普通の人が数年修業をした結果、霊験あらたかな人に変わってお告げを発するようになる…という歴史が土山の山深い農村の中で延々と守られてきたのは驚異であり究極の神道文化でもあります。
「歴史のなぞ」次回は近江の祭その4をおうかがいする予定です。どうぞお楽しみに…