くさつ歴史こぼれ話
2/4(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと金田まりこが担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には
草津宿本陣と草津宿街道交流館の館長 八杉淳さんにお越しいただきました。
今回は「江戸時代の旅 その6」として前回の続きからお話をおうかがいしました。
江戸時代の旅人のマナーってどんなの?
江戸時代東海道の道幅は、たとえば草津宿の場合2間~3間(約3.5~5m)ほどで大勢の旅人が通るにはそれほど広くなく、当時の浮世絵や名所図会を見ると、旅人はきちんと左側を歩いているのがわかります。
江戸時代前期に日本を訪れたケンペルも「上り(京の都に向かう旅人)は左側を、下り(京を離れる旅人)は右側を歩かなければならない」と決まりを守っている人々のようすを書いています。
武士が刀を左側に差して歩くため、すれ違う時にお互いに刀がぶつからないように…と左側を歩く決まりが生まれたようで、参勤交代の行列も左側通行をしていました。
また複数で旅をする場合、名所図会に書かれた絵を見ると2人なら横に並んで、3人なら会話ができる距離で縦に並んで、4人なら2人が2列に、お伊勢参りなどの団体は2列縦隊で…と道に広がらないよう当時の旅人のマナーは良かったようです。
また街道沿いには松並木が植えられて旅人は日よけや休憩にと利用したのですが、並木には道の幅を示すのと根が張るから路肩が崩れないという意味もありました。一里(約4km)ごとに作られた一里塚は距離の目安になりました。
江戸時代の旅人のトイレ事情。。。
外国人ケンペルが書いたものによると「百姓家の近くの街道沿いには便所として造られた粗末な小屋があり道行く人は自由に使ってよかった」と書かれ、街道沿いには公衆便所のようなものが所々に造られて旅人にはありがたい存在であり、一方農家にとっても居ながらにして肥料が手に入るというしくみができていました。
この便所は女性の旅人も使っていました。ただし女性はトイレの不安から長い航路、たとえば東海道七里の渡し(桑名~宮)や浜名湖など海の渡し船を嫌ってわざわざ遠回りの道を歩いたそうです。
自分の村や宿場内では人々は街道の石をどけたり土をならしたり雨水を流すための溝を掘ったり坂道は崩れやすいので石畳にしたり…と歩きやすいように工夫をしていて、旅人に優しい街道が作られていました。
当時来日していた外国人は「これだけきれいに整備されて秩序が保たれている道はヨーロッパにはない」と書いています。
「くさつ歴史こぼれ話」次回は3/4(木)にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…