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7/1(木)モニロケ785 「くさつ歴史こぼれ話」 草津宿本陣・草津宿街道交流館の館長 八杉淳さん

7/1(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと金田まりこが担当しました。

毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には
草津宿本陣と草津宿街道交流館の館長 八杉淳さんにお越しいただきました。

今回は幕末の動乱と草津宿についてお話をおうかがいしました。
1853年(嘉永6年)ペリーが黒船を率いて浦賀に来航し日本が外国に開港を迫られましたが、その翌年1854年ロシア使節のプチャーチンの船が江戸ではなく京都御所に近い明石沖に現れました。その情報を持った飛脚が急いで江戸へ向かい、通り道である草津宿では翌日にはロシアの異国船のことを知り膳所藩にただちに報告しています。

そこで膳所藩では異国船に対する警備のため、領地内の各村に帯刀(たいとう)つまり刀を持つことを許された者をそれぞれ村ごとに人数を割り当てて動員するようにとのお達しを出しました。対策が素早く打てたのは異国船の情報がすぐに膳所藩に報告されたからです。

草津宿は東海道と中山道が通る交通の要衝であり人が行き来することでいろんな情報が入ってきます。
また宿場町の人々だけではなく近隣の村人も買い物や宿場の仕事を助ける助郷として草津宿に来ているので新しい情報を知り、それぞれに村へ持ち帰ることで地域全体に広がっていきます。
江戸時代であっても私たちが思う以上に情報は早く広く伝わっていたようです。

実はロシア船の騒ぎが起きたその3か月ほど前に、草津宿とその周辺の村々は大きな地震に襲われたとの記録が残されています。
自然災害で人心が揺らいでいる時に異国船がやってきたということで、250年続いた平和な江戸時代がこの先どうなるのだろう?と当時の人々は非常に不安を感じたことが想像できます。

幕末の動乱の時代になると情報を手に入れて社会情勢を早くつかむことが特に大切になってきます。いろいろな情報を比較的早く知ることができた草津宿の人々の中には時代が大きく変わろうとしているのを予想していた人もいたのかもしれません。

「くさつ歴史こぼれ話」次回は8/5(木)にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…

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