9/2(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと金田まりこが担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には草津宿本陣と草津宿街道交流館の館長 八杉淳さんにお話をおうかがいしています。現在滋賀県に緊急事態宣言が出ていますので、スタジオではなく電話でお話いただきました。
今日は明治中頃から昭和初期にかけて草津を含む栗太郡で盛んに行われた稲田養鯉(とうでんようり)についてのお話でした。稲田養鯉とは漢字からも想像できるように、田植えをした後の水田に鯉の稚魚を放って稲と鯉の両方を育てて販売するという農業で、当時農家の副業として草津では志津や老上といった琵琶湖から離れた内陸部で行われていました。
鯉は水田の中にいる様々な虫を食べるので特にエサを与えなくても育ち、エサが不足した時はモミを与える程度でほとんど手がかかりません。また泳いで水をかき回すことは稲の生育にもいいことで一挙両得でした。大正4年には栗太郡で428戸の農家で稲田養鯉が行われています。
農家では水田の水を絶やさないようにすることと、鯉の稚魚が逃げないように畔(あぜ)を壊さないことや水の出入り口にフィルターのようなものをかけることに気をつけて鯉を大切に育てました。
毎年田植えのころになると奈良の大和郡山から来る鯉種(こいだね)売りから1cm位の稚魚500~600匹を30銭ほどで買います。水田に放った稚魚を8月終わりの水が少なくなったころに引き上げてため池に移します。育った鯉は3円50銭と10倍以上で売れたため農家には良い副業となりました。鯉は大津の料理屋などに売られました。
やがて昭和10年頃田んぼの水が安定的に供給されなくなった志津では稲田養鯉が少なくなり、代わって常盤や笠縫といった琵琶湖からクリーク(水路)で水が田んぼに入る地域で行われるようになります。しかし鯉を養殖する専門業者の登場もあってしだいに廃れていきました。
現在でも場所によっては行われているカルガモ農法のカモが鯉になっていた稲田養鯉は、明治以降の農家の方が稲作と合わせて何か収入を得る方法は…と考えて生み出されたとても合理的な方法でした。
「くさつ歴史こぼれ話」次回は10/7(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…