10/7(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと金田まりこが担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には草津宿本陣と草津宿街道交流館の館長 八杉淳さんにお話をおうかがいしています。
今日は宿場町だった草津が明治に入ってから大きく近代化を進めた鉄道のお話でした。
明治22年7月東京ー神戸で鉄道が開通し草津駅も完成します。草津を含む滋賀県の部分(米原ー大津)に鉄道が敷かれたのは全線の中で一番最後でした…というのは長浜ー大津は琵琶湖の連絡船を利用していたからでした。近江商人が鉄道を誘致してようやく滋賀県にも鉄道が敷かれて、全線(現在の東海道線)が開通したといういきさつもあります。
また同じ明治22年12月には関西(かんせい)鉄道という私鉄が草津ー三雲に開通します(現在の草津線)開通式には花火の上がる中を栗太郡の小学生200人が草津駅から汽車で三雲へ向かい、大きなイベントとして当時の新聞にも紹介されています。一方で農家の人にとっては田畑の近くを走る汽車に恐怖を感じて妨害する人も出たそうです。
さらに関西鉄道は草津駅から琵琶湖の山田港に向けて鉄道を延ばして、汽船で山田ー大津(疎水を通って)ー京都という鉄道と船を使った路線も計画していました。当時は草津から京都へ向かう鉄道は今よりはるかに大回りをして京都駅に入っていたので時間も運賃もかかり、汽車と船で京都へ早く安くつなごうと考えたようです。関西鉄道の出資者の中でも三重県の伊賀や伊勢の人たちはこの計画に乗り気でした。
しかし草津駅と山田港を結ぶには天井川である草津川の下を通り抜けるトンネルを掘る大工事の必要があるため、駅から西へ進み笠縫を通って琵琶湖近くで草津川の堤防が低くなったところを鉄橋で川を渡って山f田港に到着する路線に変更します。また草津駅で現在の東海道線と立体交差させなければならないなど工事費が相当かかることから、どのくらいの乗客が見込めてはたして採算が取れるのか?を考えた結果その路線は実現することなく幻の鉄道に終わりました。
鉄道の駅は江戸時代に栄えていた町の中心ではなくそこから離れたところに建てられることが多いです。一度にたくさんの人を早く運ぶ汽車によって人々は生活スタイルが変わり、近代化が進む中で駅が拠点となってその周辺が栄え街の形も大きく変わっていきます。
もし山田港へ向かう鉄道が完成していたならば、草津の街はまたずいぶん変わっていたのかもしれませんね。
「くさつ歴史こぼれ話」次回11月はお休みして12/2(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…