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10/6(木)モニロケ「くさつ歴史こぼれ話」 テーマ:草津にある2つの「追分道標」

10/6(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井(みい)まりこが担当しました。

毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には草津宿本陣と草津宿街道交流館の館長 八杉淳さんにお話をおうかがいしています。

追分道標と草津の歴史

今回は草津にある2つの「追分道標」についてお話いただきました。

「追分」とは道が分かれるところという意味で「追分道標」は東海道と中山道が分かれるところに建っています。

追分道標はどこにある?

1つは本陣側の草津マンポ入り口やや高いところにある追分道標で江戸時代文化13年(1816)に建立されました。灯明をともす銅製の火袋(常夜燈)がついた大きな道標で、今そのデザインが草津のシンボルとしてよく使われています。

道標には「右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ」と彫られています。この道標は東海道や中山道を往来する飛脚問屋の仲間たちが寄進したもので、台座には大阪、京都、尾張、岐阜などの飛脚問屋の名前が刻まれています。

江戸時代は一般の旅人が往来するのは昼間だけで日が沈んだ後に歩くのを禁止されていました。しかし飛脚は夜も走るので街道を照らす灯明は非常に大切であり、常夜燈のついた道標を飛脚問屋の仲間で寄進したと考えられます。

二つ目の道標とまちの発展

東海道と中山道の分岐点に建つもう1つの道標は草津マンポを通って中山道沿いにある覚善寺の角に明治19年に建てられました。この明治19年というのは草津川(天井川)の下を通り抜けるトンネル 草津マンポが完成した年でもあり、草津宿と隣の大路井(おちのい)村が川を越えなくても自由に行き来できるようになります。

その結果東海道と中山道の分岐点が江戸時代の追分道標の位置から200m北に移動します。新しい道標には「右 東海道 左 中仙道」と彫られ、覚善寺の前の道が栗東の小柿や目川へとつながり東海道になります。現在この道標は道路拡張工事などで道の角ではなく覚善寺の門前に建っています。

その3年後の明治22年に草津駅が開業して草津にも汽車が走るようになり、町の形が江戸時代の宿場町から変化していきます。

また明治になると立木神社の近くから琵琶湖の山田の港に向かう山田道が作られ港から汽船が運航するようになります。やがて山田港は江戸時代に帆船で栄えた矢橋の港に取って代わります。

こうして明治に入ると汽車や汽船といった動力が登場して江戸時代とは社会が大きく変わっていきます。

「くさつ歴史こぼれ話」次回は11/3(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…

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