1/5(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には草津宿本陣と草津宿街道交流館の館長 八杉淳さんにお話をおうかがいしています。
太陰暦から太陽暦へ
今回は太陰暦と太陽暦についてお話いただきました。
日本は江戸時代までは「太陰暦」つまり月の満ち欠けの周期をもとにした暦を採用してきました。
太陰暦は当時の生活に結びついた暦でした。
明治時代になり政府が文明開化を進めていく中で「太陽暦」つまり地球が太陽の周りを回る周期をもとにした暦を採用すると通達を出します。
それによって明治5年12月3日が明治6年1月1日と定められました。
矢倉村の庄屋の日記には、今回の改暦によって明治5年は12月2日で終わることや地元の若宮八幡宮の祭礼が8月15日から10月6日に変わったことなどが書かれています。
草津の暮らしへの影響
しかし新暦(太陽暦)によって1週間7日の曜日で月曜から土曜まで働いて日曜は休むと決められても、旧暦が人々の生活に結びついていたのでそれに合わせて休みを取り新暦はなかなか浸透しませんでした。
たとえば神社の神事やお寺の仏事また農業歴(時期ごとの農作業や伝統行事をまとめた暦)によって1年のサイクルが回っていて、その時期にしなければならない事がありそれが終わって休みを取るという仕組みだったので、新暦の日曜日が休みということが定着するのは難しかったようです。
明治30年ころのカレンダーには新暦と旧暦が併用して書かれていました。
草津村は旧の草津宿あたりで商家が多く農業歴が適用されていなかったので、農業に関わる休みを取らなかったため他の村と比べて休日が少なかったようです。
ただ「お茶つぼ休み」といってお茶つぼが街道を通る日(5月頃)はお休みといった江戸時代の宿場町ならではの休みの習慣が、明治時代になってからもしばらく続いたのは興味深いです。
またお正月には「回礼」という年始回りの慣習が各村で長年行われてきましたが、昭和4年に倹約するように通達されると志津村や山田村,草津町では一同が一カ所に集まって回礼を簡素化したり廃止するところもあったりと、時代とともにお正月を迎える形も変わっていきます。
太陽暦は戦後になって農業を離れ会社勤めをする人々が増えてくるに従って定着していきました。
「くさつ歴史こぼれ話」次回は2/2(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…