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7/6モニロケ くさつ歴史こぼれ話 放送内容「草津に今も残る2つの道標」

7/6(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には草津宿街道交流館と草津宿本陣の八杉淳さんにお話をおうかがいしています。

今回は草津に今も残る2つの道標についてお話いただきました。
まず草津マンポの出入口 草津まちづくりセンター近くのやや高いところに立つのが追分道標です。


追分とは道が分かれるところという意味で、東海道と中山道がここで分かれていきます。

「右 東海道いせみち」「左 中仙道美のぢ」と彫られています。
上に火袋が付いた立派な道標で、文化13年(1816)に各地の飛脚屋の寄進で建てられました。
それ以前にこの位置にあった延宝8年(1680)の道標は立木神社の境内に移されています。

もう1つの道標は草津マンポを通って北(駅側)へ100mほど移動した覚善寺の門前に立つ道標です。
「右 東海道」「左 中仙道」と彫られています。
明治19年(1886)草津川の下をくぐる草津川隧道(ずいどう)→草津マンポが完成したことで東海道と中山道の分岐点が北へ100mほど移動し、新しく覚善寺南西角に建てられた道標です。


新しい道標を東に折れて覚善寺や小汐井神社の前を通る道は「新道」と呼ばれ、そのまま進むと草津川を越えて降りてくる東海道とつながります。

草津川は江戸時代中頃には天井川化が進んで川越えに苦労していたのですが、明治時代に入ると自転車や人力車が登場してますます川越えが大変になり、人々は平たんな道を行き来できることを強く望みました。
地元からトンネル建設願書が出されて工事が始まり、やがて完成したのがアーチ式煉瓦両側石積の草津マンポです。
草津マンポを通ることで東海道,中山道ともに草津川を越えることなく行き来でき、3年後の明治22年(1889)草津駅が完成すると草津宿周辺に住む人々は駅へ簡単に行けるようになりました。

また明治に入って琵琶湖を蒸気船が走るようになると江戸時代の矢橋の港が衰退して山田の港が栄え始め、港へ向かう山田道が整備されます。
こうして汽車や汽船のおかげで交通体系が大きく変わり、人々は大量に早く移動できる便利さを知ることで草津の町も旧の宿場町に代わって駅周辺が繫栄するようになっていきます。

「くさつ歴史こぼれ話」次回は8/3(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…

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