1/4(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には
草津宿街道交流館と草津宿本陣の八杉淳さんにお話をおうかがいしています。
今回は新春に合わせて年賀状のお話から始まりました。
明治初めの頃はお正月3が日ゆっくり休んでいる時に年賀状を書くのが習わしでした。
明治20年頃から年賀状の慣習が一般にも広まりましたが、明治30年代に入ると年末に投かんするとお正月に届くという今の形に変わってきました。
江戸時代の飛脚に代わって明治4年に近代の郵便制度を確立したのが前島密(ひそか)です。
「近代郵便の父」とよばれ1円切手の肖像でも知られています。
この前島密のNo.2として郵便制度の実施にあたり西日本で中心的役割を果たしたのが草津出身の山内頼富です。
山内家は江戸時代には代々草津宿の宿役人であり、幕末に至るまで草津宿の運営を担う要職を務めていました。
明治初めに前島密とともに郵便制度の創始に関わった山内頼富の生家の山内家には、差出に「前島密」の名がある自筆の書状が20点ほど残されています。
中でも興味深いのは年賀状で今のような葉書ではなく長文の書状なのですが、明治6年には井上馨(かおる)や渋沢栄一といった明治政府の主要人物が辞表を提出した…といった政府の内情が打ち明けられていたり、明治9年には多忙で年賀状を出すのが遅れて謝罪申し上げると書かれていたり…と近代郵便の父と言われる前島密自身がどんな郵便物を出していたかがわかる貴重な資料です。
年賀状の中に「西方大任」という言葉も見られ、これは西日本の大きな役割を任せているという意味で、西日本の郵便制度は山内頼富が相当動いて確立していったことがわかります。
また大阪出張所で不正トラブルがあり最高責任者の山内が途中で辞任した際には前島は残念がって、辞めるのは惜しいとか復帰を願う、他人を避け2人で会いたいなどの手紙を出しています。
前島が神戸に出て来た時は帰りは船で横浜に着いて馬車で東京に戻ったとか、大風のため船に乗れなかったことや自分が麻疹(はしか)にかかったので馬車や人力車に断られて仕方なく駕籠(かご)で帰宅した…といった日常の些細な出来事まで書状に書かれています。
前島密が山内頼富に送った数々の書状には当時の政治情勢に関わることから個人的な出来事まで書かれていて、二人の親交の深さを知るとともに明治初期の社会制度が出来上がっていく様子もうかがえる大変貴重な資料です。
「近代郵便の父」として教科書にも載るほどの著名人である前島密が、信頼を置いて重用していた山内頼富は草津の出身だと知り誇らしく思えました。
「くさつ歴史こぼれ話」次回は2/1(木)10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…