2/1(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には草津宿街道交流館と草津宿本陣の八杉淳さんにお話をおうかがいしています。
今回は草津琵琶湖岸の山田港と大津を結んだ湖上航路を開いた杉江善右衛門(ぜんえもん)についてお話いただきました。
草津の琵琶湖岸では昔から志那、山田、矢橋の3つの港が栄えていました。
江戸時代に入ると「急がば回れ」で有名になった矢橋港だけが栄えて、山田港はさびれた漁港になっていました。
「山田港の繁栄を取り戻したい」と強く願った杉江善右衛門は組合を作り港を整備して、明治5年丸子船数隻で山田港と大津の紺屋が関で定期運航をスタートさせました。
やがて近代化が進むと琵琶湖にも汽船(蒸気船)が走り始め、丸子船は時代に取り残されるようになってきます。
当時の人々は黒煙をはいて琵琶湖を速く走る汽船を見て大変驚き、喜んだそうです。
明治10年代に入ると汽船が一般化して、明治15年には山田航路は毎日15,6往復して1日に600~700人のお客を運びました。
鉄道はもちろん道路すら整備されていなかったこの時代に一度に大量の人や物を運ぶ交通機関は唯一船であり、琵琶湖を走る汽船も数多く登場して競争も激しくなります。
明治19年東海道の立木神社近くから山田港へ向かう山田道が整備され草津の町から港へ行きやすくなり乗客も増え、杉江善右衛門の願い通り山田港は前にもましてにぎやかになりました。
ところがこの頃から草津にも文明開化の波が押し寄せてきます。
明治19年草津マンポが完成、明治21年草津川の下をくぐる鉄道トンネルの完成、明治22年草津駅の完成と鉄道の開通…と新しい画期的な交通手段が加わり、琵琶湖の湖上航路をめぐる状況に大きな影響を及ぼします。
当時の鉄道料金は割高だったので乗客はすべて船から鉄道へ移って、山田航路はすぐに衰退したというわけではないけれど汽車に多くの乗客を取られたことは間違いありません。
ただ草津の琵琶湖岸近くに住む人々には大津へ行くために草津駅に出るよりも船に乗った方が早くて便利ということもあって、規模を縮小しながらも汽船での運航も長く続いていました。
特に明治から昭和初期まで子どもの疳の虫に効くと評判の墨灸(すみきゅう)を求めて京都大阪から多くの親子連れが訪れた「穴村のもんや」は、汽車で浜大津に到着して浜大津から穴村港まで汽船に乗り、港から乗合馬車に乗ったり貸しうば車に子どもを乗せて歩いたりしながら穴村にある診療所を訪れました。
診療所が休みの時は京阪三条駅に休診の知らせが貼りだされるほどで、琵琶湖に近い穴村へ行くためには汽船が大切な交通手段であり、大勢の人々が港で乗船を待つ写真が今も残されています。
「くさつ歴史こぼれ話」次回は3/7(木)10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…