11/7(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には
草津市歴史文化活用調整員の八杉淳さんにお話をおうかがいしています。
今回は江戸時代の年貢についてお話いただきました。
江戸時代 年貢の割り付け
11月に入るとお米の収穫も終わり領主に年貢を納める時期となります。
江戸時代はすべてお米で換算する「お米づかいの経済」であるのが大きな特徴です。
11月中頃に「免状」とか「年貢割り付け状」と呼ばれる年貢の通知書が領主から届きます。
検地で面積を測り、お米の取れ高によって上田(じょうでん)、中田、下田と区分けして年貢が決まります。畑や家が建っている土地も、仮にここでお米を作ったとしたらどれくらい収穫できるのかで換算します。
たとえば草津なら野路村、矢倉村、山寺村…などそれぞれの村単位ですべてのお米を合算したものが「村高」です。その村高に対して今年はどれくらいの年貢をかけるのかを決めた免状や年貢割り付け状が領主から届けられます。
当時 草津の年貢納めの様子
草津はお米の取れ高がよく交通の要衝でもあったので1人の領主に集中することを幕府が怖がり、膳所藩だけではなく淀藩、前橋藩や旗本などにも分割しています。たとえば平井村には領主が7人もいて、それぞれの領主から年貢の割り付け状が届きます。
割り付け状を見ると水害があれば水損として一部を免除したり、村のお米の仮置き場(郷蔵)の敷地の面積や領主まで運ぶ費用は免除するなど領主も農民に配慮していることがわかります。搾取して年貢を納めるのが苦しい状況になれば暴動や一揆が起きてしまうし、次の再生産にもつながらないので領主の側も上手に手心を加えながら年貢をかけます。
現在も追分村や下物村、志那村などには免状や年貢割り付け状がたくさん残っており、年貢の減っている年は水害があったことがわかるなど年ごとの変化を見ることができます。村が一つの単位として村に課せられた年貢は村全体でそれぞれの領主に納めるという村請制であったのも江戸時代の特徴の一つです。
悪代官が個人の農家に年貢を取りたてに来る…という時代劇によくある場面は実際にはありえないことだそうです。12月に年貢を納めると領主から「皆済目録」が届いてその年の責務が終わり、農閑期を経て田植えの準備など次の農作業が始まります。
「くさつ歴史こぼれ話」次回は12/5(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…