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3/6(木)モニロケ「くさつ歴史こぼれ話 昭和初期における草津の激動」

3/6(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には草津市歴史文化活用調整員の八杉淳さんにお話をおうかがいしています。

今回は今年が昭和100年にあたることから昭和初期における草津の激動についてお話いただきました。
昭和2年(1927)4/15草津町に本店を置く栗太銀行が帳簿整理を理由に2週間の休業を発表したことから滋賀県での金融恐慌が始まりました。

休業の知らせに驚いた預金者は栗太銀行本支店に詰めかけて、店舗周辺は群衆で埋まり大混乱となります。
人々の不安に付け込む流言飛語やデマが流布するようになり、パニックをあおる扇動者は取り締まりの対象となり検挙されました。

銀行はその後も再建のめどが立たず、2年後の昭和4年(1929)草津町の料亭 魚寅楼で株主総会が開かれ株主らは銀行側を激しく糾弾します。
結局経営は泥沼化したままで、休業してから3年4か月後の昭和5年(1930)8/29栗太銀行は解散に至りました。

こうした厳しい状況で幕を開けた昭和ですが、農村でも昭和4年(1929)の世界恐慌のあおりを受けて、米や農作物の価格が下落すると農業恐慌に襲われます。
政府は不況打開策として農山漁村経済厚生計画を推進して、草津では常盤村と山田村が更生村として選ばれ自力更生運動に取り組みました。

世の中は不況に苦しむ昭和初期でしたが、生活面では欧風化が進んだ時期でもあります。
草津町には映画館が3館もできて娯楽の中心となり、カフェが増えジャズが流行し服装も洋服へと変わっていきました。
バスやタクシーが一般的になったのもこの時期です。
宿場町を中心に栄えてきた草津ですが、明治22年草津駅ができてから30年以上がたってくると駅周辺に商店が移転して町が大きく変化してきます。

昭和初期は日本全体が不況に沈んでいましたが、次第に軍部が力を持って満州事変、日中戦争…へと戦時下の道を歩むことになります。
その時代から100年たち日本は大きく変貌を遂げました。

「くさつ歴史こぼれ話」次回4/3(木)10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…

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