5/1(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には
草津市歴史文化活用調整員の八杉淳さんにお話をおうかがいしています。

今年が昭和100年にあたることから今回も昭和初期の人々の暮らしについてお話いただきました。
昭和6年満州事変が勃発して、日本全体が戦時体制への道のりを歩んでいくことになります。
戦争を支持する熱が強まり、国防献金として寄付を集めたり戦地へ慰問品を送るほか、銃後で一緒に戦っている意識を持つための映画も上映されました。
草津駅では出征兵士の見送りと帰ってきた兵士や戦死した兵士の遺骨の出迎えも盛んに行われるようになります。
立木神社や小汐井神社では武運長久(出征した兵士がいつまでも無事なこと)の祈願祭が実施され、ラジオや新聞は戦況の報道を常に行います。
昭和7年在郷軍人会が国防献金を集めるため草津駅前で大相撲大会を開催したり、滋賀県では全県民一人3銭の県民国防献金運動もありました。
また寄付金を集めての航空機の献納運動も行われ、地元からとわかるように草津号、栗太野洲号と航空機に命名して献納されました。
防空演習として草津町や各村に実施本部が置かれて、在郷軍人会、役場職員、消防団、青年団などが中心となって灯火管制、消防、避難訓練、救護訓練なども行われます。
町内会は行政の末端を担う組織として物資の配給を行い、人々の生活を支援しました。
この時代は地域のまとまりが強く、戦地の軍人さんを支援して自分たちは銃後を守っていこうという意識が非常に高かったようです。
戦況が厳しくなってくると勤労奉仕として国民学校の児童が工場で働いたり、食糧増産のため草津川の堤防を耕して芋を作ったりしています。
戦時色はますます色濃くなってきますが戦地を応援する気持ちは強く、愛国婦人会など残った人々が相互扶助で作業しながら日々の生活を守っていました。
草津周辺は幸いにも空襲はありませんでしたが、大阪の小学生が志津のお寺などに集団疎開している写真があり当時の様子をうかがうことができます。
昭和初期は文化や風俗で欧風化が進んだ時代でしたが、その一方で戦時色がどんどん強まった時代でもありました。
「くさつ歴史こぼれ話」次回は6/5(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…