MENU
オンデマンド配信は【こちら】

7/3(木)モニロケ くさつ歴史こぼれ話 「草津の人々の戦時下での暮らし」

7/3(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。


毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には草津市歴史文化活用調整員の八杉淳さんにお話をおうかがいしています。

戦時下の草津の様子

今年が昭和100年にあたることから今回も昭和初期の人々の暮らしについてお話いただきました。
今回は草津の人々の戦時下での暮らしについてお聞きしています。

昭和16年太平洋戦争がはじまると戦火は拡大し、やがて日本本土が空襲を受けるようになります。
滋賀県は軍需工場が大津の東レ滋賀工場くらいしかなかったため、大きな空襲を受けることがそれほどありませんでした。
特に草津は軍需工場も軍事施設もほぼなかったので、幸いにも攻撃の目標にされなかったようです。

それでもB29が大阪湾や伊勢湾から琵琶湖に向かって飛んでくる時は空襲警報が鳴りました。
白いシャツは上から目について攻撃の目標になると、わざわざカーキ色に染めたこともあったそうです。

終戦の半月ほど前に大津を爆撃した小型機が、東海道線守山駅に停まっていた列車を攻撃して即死11名負傷者多数という出来事がありました。
死亡者の中には草津駅から乗った栗太農学校の生徒2名も含まれていたと記録に残されています。

草津の戦時中の米事情

また日中戦争が始まって以降米不足となり、米は政府が管理して自由に売買できなくなりました。
米の増産も図られ、肥料を確保するため人糞を求めて草津から大津や京都までもらいに出かけます。

琵琶湖に近い山田や矢橋では船に桶を積んで浜大津に出かけ、内陸では国道1号や浜街道を大八車やリヤカー、木炭車のトラックで集めました。
最初は野菜などと交換していましたが、やがてくみ取り料として農家がお金を払って肥えを買う仕組みができあがります。

米を政府が管理して自由に売買できなくなると、ヤミ米が登場してきます。
肥えをくみ取りに行く時にヤミ米を隠して京都などに売りに行きました。

そんなヤミ米を摘発するための検問所が逢坂山や瀬田の唐橋、京都駅手前の列車内に設けられました。
さらに物資が不足してくると米以外のさまざまな物も配給されるようになってきます。

戦時下での草津の人々の暮らしは空襲の恐怖もありながら、物不足からの配給を受け入れて慎ましく生活していました。
一方でヤミ米を検問をくぐりぬけて京都に売りに行き、たくましく生活するようすも伺えます。

草津は空襲もなく、戦時中でも比較的穏やかな暮らしができました。
安全な地域ということで、大阪の小学生が学童疎開で志津や山田で集団生活していました。
終戦の翌々日には草津駅から大阪へと帰って行った当時の写真が残っています。

「くさつ歴史こぼれ話」次回は8/7(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!