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8/7(木)モニロケ785 くさつ歴史こぼれ話「戦時下の草津 学童疎開と学徒動員」

8/7(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には、草津市歴史文化活用調整員の八杉淳さんにお話をおうかがいしています。

今年が昭和100年にあたることから今回も昭和初期の人々の暮らしについてお話いただきました。
今回は戦時下での学童疎開と学徒動員についてお聞きしています。

太平洋戦争の戦局悪化に伴って学校教育も大きな犠牲を被るようになってきます。
昭和19年6月頃から都会の国民学校初等科の児童が集団疎開を開始します。

昭和19年の2学期から大阪の72の国民学校から約1万名の児童が滋賀県内の市町村に疎開してきました。
栗太郡では草津町、志津村、老上村、山田村、笠縫村など7つの町村に23の受け入れ先が設けられ、学童857名、付き添い職員44名が疎開します。

疎開先として草津町は伝久寺 浄教寺 養専寺 天理協会、志津村では無量寿寺 西方寺、野路の願林寺、笠縫村の最勝寺などのお寺が多く、それぞれ数十名単位に分かれました。
食糧が不足する時代に受け入れる側も食料の確保は大変な苦労でもあり、地域住民が共同炊事を行うなどして疎開児童の生活を支えました。
昭和20年8月15日に戦争が終わると児童は一斉に大阪へ戻りますが、草津駅に集まり電車で帰っていく写真が残っています。

その一方草津の中等科以上の生徒は学徒動員として軍需工場へ手伝いに駆り出されます。詳しい内容は機密事項でしたが、学生たちの記憶によると県内の主な動員先は堅田の住友金属、石山の東洋レーヨン、草津の敷島紡績、高砂製作所などがあげられます。また大中など琵琶湖の干拓事業の現場へ動員されて食糧増産にも貢献します。

また昭和19年8月24日草津高等女学校の4年生全員が名古屋の三菱重工に動員されます。当日両親の激励の声をうけた女学校の生徒たちは専用列車で草津駅を出発して、名古屋の三菱の寮に入ったもののその夜に空襲を受けて防空壕に飛び込む経験をします。10月になると空襲が激化して生徒たちは決死の覚悟で髪を切って親元に送り、さらに12月にはマグニチュード8の大地震が東海地方を襲うという悲劇に見舞われます。草津の女生徒は幸いにも数名の負傷で済んだようです。

戦局の悪化により学校教育は勉強どころではない状況に陥り、国民学校の子どもたちも学習よりも戦時下での活動が優先されて、天気の良い日は食糧増産のさまざまな作業に駆り出され、学校では軍隊をモデルにした行進などの訓練が行われました。
当時の新聞には戦意をあおって軍事政策に迎合的で国民を扇動するような記事が多くみられ、それが大人だけでなく子どもたちまで影響が及びました。

「くさつ歴史こぼれ話」次回は9/4(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…

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