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くさつ歴史こぼれ話 ~江戸時代の青花紙流通~

8/5(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと金田まりこが担当しました。

毎月第1木曜10時台(今回は9時台)の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には
草津宿本陣と草津宿街道交流館の館長 八杉淳さんにお越しいただきました。

今回は草津の特産品である青花紙が江戸時代どんな形で流通したのか?についてお話をうかがいました。
7月8月の暑い盛りに花を咲かせる青花の花びらを摘み取り、絞った汁をハケで何度も和紙に染みこませ乾燥させたものが青花紙です。

江戸時代には栗太郡一帯の農家で広く作られていました。絞り汁を容器に入れるのではなく和紙に染み込ませて輸送するという流通の仕方は当時の工夫から生まれた合理的な方法であり、他のところにはない特殊な形です。使うときはその紙を水につけて染料に戻します。

江戸時代中ごろになると青花紙の売買にも「青花運上」という年貢が掛けられて膳所藩にお金を収めるようになります。実際どれくらいの青花紙が流通しているのかを把握するため膳所藩は「青花会所」を作り、ここを通して売買しなければ流通できない仕組みが出来上がります。

お米とは違って現金収入になるので副業として青花紙を作る農家が増えていきますが、栗太郡一帯すべてが膳所藩の領地ではないため、支配が及ばない所で作られた青花紙が青花会所を通さないで流通するのを何とかしてほしいと訴える騒動も起きています。

やがて青花紙の生産量が増えて青花会所だけではさばききれず販売専門の「売り会所」を作って青花紙を1か所に集め、一気に出すと値が下がるので調整しながら販売をするようになり江戸時代後期には青花紙の流通も安定してきます。

上笠村の地主小森家では青花紙の取引先が京都に7.8軒大阪に10軒ほどあったと記録に残されています。青花の染料は京都では京友禅の下絵書きに使われましたが、大阪では浮世絵などの青色部分に使われたということも最近わかってきました。

また明治時代になるとこんぺい糖などのお菓子の色づけにも用いられました。このように青花紙の需要は着実に増えて、96枚でひと束の青花紙が北山田村では150束(そく)木川村では830束など相当な量が出荷され、草津の特産品としてその名が知られていました。

残念ながら現在は青花の栽培農家がほとんどなくなって存続の危機にあり、青花紙の技術を受け継いでいくため保存会が作られています。

「くさつ歴史こぼれ話」次回は9/2(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…

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