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3月 草津レポートこちら

3/2 モニロケ くさつ歴史こぼれ話「徳川家康と草津の関わり」

3/2(木)モニロケ785木曜日は高橋さゆりと三井麻莉子が担当しました。
毎月第1木曜10時台の「くさつ歴史こぼれ話」の時間には
草津宿本陣と草津宿街道交流館の館長 八杉淳さんにお話をおうかがいしています。

今回はNHK大河ドラマから徳川家康と草津の関わりについてお話しいただきました。

家康の支配下に入る草津村

1600年9月15日関ケ原の合戦に勝利した家康は天下の覇権を握ります。
豊臣秀頼の住む大阪へ向けて進む徳川方の先鋒の福島正則は、その2日後の9月17日に草津村に禁制(きんぜい)を下しています。

禁制とは軍勢の乱暴を防ぐ目的でいくつかの禁止事項を書いた文書であり、乱暴狼藉や人さらい 放火と禁止事項が箇条書きされています。

福島正則が禁制を下すということは家康側が草津村を庇護することを意味して、これにより草津村が家康の支配下に入ります。

この時期は草津宿などの宿場町が整備された江戸時代より前なので、禁制は草津宿ではなく草津村宛てに出されています。

さらに2日後の9月19日に徳川家康は草津村の常善寺に宿陣し、翌日の9月20日に大津へ向かいます。
その9月20日に福島正則は池田輝政と連名で芦浦観音寺のある芦浦村にも禁制を下しており、草津あたりの村々を次々と支配下におさめているのがわかります。

重要視された草津村の領地

関ケ原の合戦で勝利した東軍についた武将に西軍の領地を分け与え、近江にも彦根に井伊氏、膳所に戸田氏と新たな領主が誕生します。
ただし膳所城が近いからすべて膳所藩の領地というわけではなく、京の淀藩や新潟の三条藩などの領地もあって領主が錯綜しているのが近江の特徴です。

近江は交通の要衝であり、東西に往来する時に必ず通る瀬田橋(瀬田の唐橋)あたりを大きな藩が一括して握るのを支配者側が恐れて領地を細かく分散させました。

瀬田橋を中心とした草津と大津を重要視したのは織田信長も同様です。足利義昭を奉じて上洛したとき15代将軍となった義昭が信長に副将軍の地位を与えようとしますが、それを辞退して草津と大津と大阪の堺を自分の領地にしたいと申し出ます。天下を統一していくうえで瀬田橋の両側の草津と大津を掌握することが重要だと信長が考えていたことがうかがえます。

また秀吉も「草津そうさ」という近江の道に詳しい人物を配下に置いていたことが書状からわかっています。

「くさつ歴史こぼれ話」次回は4/6(木)の10時台にお送りする予定です。どうぞお楽しみに…

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